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我が家のはる

1995年春、はるさん夫婦は二人暮らしに終止符を打ち、
次男の我が家へとやって来た。

老親の介護に追われる日々は、
1997年12月に義父が、そして2002年1月にはるさんがなくなるまで続いた。

でもね、苦労話だけじゃないよ。
介護をされることになっても、介護をすることになっても
今の自分を楽しみながら生きていけるはず。
その人らしく生き生きと!

遠距離介護

長野県で夫婦二人暮らしをしていた夫の両親が加齢と共に徐々に手助けが必要になった。義母のパーキンソン発病も加わった。
初めは季節ごとに、こたつやストーブの出し入れ、障子はり、大掃除などだったが、やがて、洗濯・食事づくり・掃除・後片づけなど、家事のすべてに援助が必要になっていった。
週末に夫と二人で高速道路を長野へ走り、掃除、布団干し、1週間分の買い物。夕飯を作り一緒に食べて、ゴミと汚れ物のつまった袋をいくつも車に積んで夜遅く家に帰ってきた。1週間後に行くと、又ゴミの山。

義母はデイサービスを使ってときどき出掛けたが、義父は頑固一徹でプライドが高く出掛けようとはせず、手伝いのヘルパーさんともトラブった。長いつき合いの隣近所の人々も義父を扱いかねてる風だった。
長年住み慣れた土地を離れることを渋るので連れてくることもできず、徐々に進む義母の痴呆とパーキンソンに伴う歩行困難、義父の体力の衰え、この先どうなるのだろうと思う。

離れた土地に住む義父母のもとへ度々通うのはなかなか大変なことだった。時間をとられるし、子供達に長時間の留守番をさせなくてはならないし、何かと出費もかさんだ。行って帰ってくるとクタクタにくたびれた。

しかし一方で、帰宅してしまえば離れて住む気楽さと開き直りで心の負担はそれ程でもなかった。子供達も私たち夫婦が苦労しているのを感じてねぎらってくれた。スケジュール調整や今後の方針を語り合う事で夫との会話もいやおうなく増え、お互いに思いやり感謝しあうことができた。結婚20年近いマンネリ気味の夫婦には長野へ通う車中での二人だけの時間も新鮮ではあった。

呼び寄せ介護

1994年11月に義母が体調をくずし病院へ運ばれた。半月後には、義父もヤカンのお湯をひっくり返してやけどを負い同じところへ入院。
どちらも命に別状はなく、間もなく回復したが、これをきっかけに、いやがる二人を説き伏せ、翌年4月に我が家へ連れてきた。年老いてからの引っ越しは義父母にとって良くないことと思っても、こちらが長野へ引っ越すことは不可能だった。
中程度の痴呆がある義母と、すっかり足腰が弱った義父を、「元気になったらいつでも帰れるから」と騙すようにして連れて来た。1995年4月桜が散り終わったころはるさん夫婦は、我が家へやって来た。

長野へ通いながらの介護と違って、自宅での介護は息抜きが出来ず苦しい。家庭の中全部が二人の介護に染められて行った。家族団らんも義父母の世話と併行しつつの団らんで、心安らぐものにはならなかった。

はるさん夫婦にとっても安らぎの場ではなかっただろうと思う。特に義父は長野へ帰りたがった。痴呆の進んでいたはるさんのほうが、むしろ卓越した感があり、帰りたがる義父に「息子の世話になるのになんの遠慮があるものか」と説教していたし、私には「面倒かけてすまないね」と言っていた。また、「娘を持っていたら良かったのに息子ばかりでつまらん」と、私という女手のある有り難さを分かってくれてるようだった。
介護をうける立場になってもはるさんははるさんらしいやり方で周りを見ていたと思う。

二人を介護

一人でも大変なのに、同時に二人を介護するのは実に大変。
夫が出勤し子ども達が登校したあと年寄り二人を相手に過ごす毎日がはじまった。朝昼晩の食事の世話、入浴・トイレの介助、なにもかも二人分だったが、介護そのこと以前に、二人対一人では分が悪かった。すっかり二人に振り回され、まるで老人ワールドに引き込まれたかのようだった。
自分の生活の場はなくなり、義父と義母の一挙手一投足に振り回され、ノイローゼ寸前。夕方子ども達や夫が帰ってくると、やっと自分を取り戻せるような気になれた。

例えば食事

当たり前だけど食事は一日三回、朝昼晩。ずーっと専業主婦だったけど、毎日三度三度やってるとそれだけでいやになっちゃう。
はるさん夫婦は長野に居たときからご飯は軟らかめに炊いていた。昔、子供達と帰省中、はるさん流に炊いたら、「ベチャベチャでいやだ」と不評だったけど我慢させたものだった。

しかし、これからは長期戦。そうそう子供や夫に我慢させる訳にもいかないので、釜を二つ使い、家族用にちょっと固め、はるさん夫婦用に軟らかいご飯と二種類炊いた。おかずも魚料理や煮物など家族用以外に必要だった。
それに 義父は理論家というか研究家というか、なかなか手強い相手であった。食事にも気を使うタイプで一日30品目摂取を唱えていたから、品数が多いと喜び「今日は合格だ」などと言った。ぜんぜん悪気はないのだけど、私にはけっこうプレッシャーだった。後には手抜きもしたけどね。

この頃のはるさんは、中程度の痴呆症状があった。「ご飯に虫が入っているから食べない」 と言ったり、「これは○○にあげる分だから、食べないで取っておく」などと言って食事をしないことがよくあった。なんとか食べてもらおうと思って説得しても、そういう時は頑として聞かない。ちょっと憎らしくなったりする。

義父は、気分のムラが激しく「もう、死んでしまいたい」「生きていても仕方ない」と嘆くことも多かった。そんな時はなにを言っても受け付けず、泣きわめいた。当然食事も「いらない!」と食べなかった。

食事を一回抜けば、その次にはお腹が空いて食べるようになるんだけど、そのことに気が付いて慣れるまでは、そんな二人に毎日振り回された。

例えば食事(2)

食事の時は、部屋から出てきてテーブルに座ってもらうようにし、食べる場所と寝る場所の区別をつけた。

テーブルに食事を並べたら、「ご飯ですよ」と声をかける。ベッドから起きあがり、手すりや壁を伝ってゆっくり部屋から出てくる。
足腰が弱ってくると、椅子に深く腰掛けることが出来なくなって介助が必要になった。義父は座ろうとして椅子の正面に向かってしまい、後ろ向きになることが出来ない。ゆっくり斜めに腰をおろすので半ケツ状態で不安定この上ない。手を貸すと怒るけど、後からかかえるようにして深く腰掛けさせてテーブルに椅子を寄せてやる。これは結構な力仕事であるうえ、義父の機嫌にもさわるので、3度の食事の中でも大変な作業の一つになる。はるさんも同じように介助が必要だけど、こちらは体重が軽いのでラクチン。

食べ方がぎこちなくなった二人だけど、意外なことにスプーンよりお箸の方が上手に使えた。日本人なんだなぁ。スプーンだと手首を回さないと口の中に食べ物が入っていかないけど、お箸なら口を寄せれば食べられた。 毎食ご飯では飽きるので、(作っている私も飽きるけどね)昼ご飯は麺類にすることが多かった。はるさんは具沢山のうどんを見ると、よく「美味しそう」と言ってくれた。この一言は、後に良い思い出となって行く。
でも長い麺は箸で挟むと結構重いようだし、口に入れたはずの麺が箸からはずれずに出てきてしまって食べられない。だから、うどんやそばの長さを10センチくらいに切ってから、汁をよそっていた。
(うーん、こんな書き方でわかってもらえるかな、心配。)

そんな二人を横目で見ながら、テーブルの反対側で私も食事をとる。トンチンカンな食べ方をしたり、こぼしたり汚したりするので落ち着かない。他の家族がいると楽しい食卓になるけど昼は三人だけのことが多いので、少し暗めになる私です。

はるさんは甘いもの好きなので、食後のお茶には和菓子などを用意した。食後に飲む薬が苦いので服薬すると大急ぎでお菓子を口に入れる。薬を飲むにはお茶より白湯が良いと思ってもそんなことには耳を貸そうとしない。説得するのは至難の業。薬を飲まないよりましだから黙認するほかない。

食後のお茶でひとしきり過ごしたあと、二人は部屋に戻っていくのだが、うっかりするとはるさんがお菓子や果物など持っていってしまう。気付かないでいるとベッドのしたや部屋の隅に隠されたまま腐っていく。「お部屋に持っていかないでね」のお願いには「うん、わかった」と応えてくれるのだが。

そのうち気がついた。はるさんがそそくさとして義父より早く部屋に戻っていくときは、ポッケの中に食べ物が入っているのだ。後で食べようと思って持って行くのだろうけど、どこかへ隠したら最後それは忘れられることになる。シーツを換える時変色したバナナがべったりくっついていたり、つぶれた饅頭がベッドと壁に挟まれていたりする。 普段はパーキンソン症状でぎこちなく歩いているはるさんだけど、不思議なことにこの時ばかりは、ささっと移動していく。そして、ささっと隠してしまう。そして…忘れられてしまう。

さて、この後は・・・・?

介護者にも休養・義父の死・寝たきりの介護・自分らしく・介護が終わるとき・・・・続きはまたね!


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