介護体験の発表

ご忠告!!
長文です。読むのはちょっと大変ですよ。

1999.5.29 ケアホーム「在宅生活思いやり教室」にて

義父母を同時に介護して

私は今、夫の母を介護中です。義母は寝たきりなので、すべてに介助が必要です。それなりに大変な事が多々ありますが、デイケアやショートステイを利用して、なんとか過ごしています。
現在は、義母だけになりましたが、一昨年の12月までは、義父もおりましたので、二人の介護をしていました。

1995年4月に長野から連れてきてからの様子をお話したいと思います。

夫の両親は、長野県小県郡東部町田中という所で、長い間二人暮しをしていました。15年ほど前に義母がパーキンソン病になり、入退院を繰り返しましたが、なんとか落ち着きを取り戻し、隣近所の方々に助けられながら、それまでと同じように、暮らせるようになりました。
しかし、もともと身体が丈夫ではない義父と、手足にふるえが出始めた義母では、5年6年と経つごとに生活が大変になってきます。やがて義母に痴呆の兆候が出始め、義父は言うことをきかない義母にいらだちながら、自分自身も足腰が弱ってきました。

夫は二人兄弟です。兄は所沢に住んでいますが、独身ですので、弱ってきた両親の、身の回りの世話などは、あてにできません。夫は次男ですが、始めから両親の面倒をみるつもりでいました。しかし、坂戸市から長野の両親のもとへ引っ越すことはできませんでした。私たちには子供が4人おります。当時は小学生や中学生でしたので、先々のことを考えると、夫が仕事を変えることまではできません。

そうかと言って、住み慣れた町から、両親を無理やり連れて来ることは、もっとできませんでした。どこのご家庭でもそうでしょうけれど、子供の世話にはなりたくない、まだまだちゃんとやっていける、おまえたちは自分の生活を大事にしなさい、の一点張りでした。

そうは言っても、手助けが必要なのは動かしがたい現実です。
家の中が散らかり、洗濯物がたまるようになり、ゴミがあふれはじめました。私は、夫といっしょに、両親の元へと、時々通いました。たまっていた洗濯物を片付け、掃除をし、台所の汚れ物を洗って、必要なものを買い揃え、夕食をこしらえて一緒に食べてから、ゴミ袋にゴミを詰め込んで、夜の関越道を急いで家に帰ります。

当時はそんな援助の仕方しかできませんでした。それも時々行けば済んでいたものが、段々に回数が増え、毎週行かなければならなくなってきました。
地元の介護支援センターに相談して、ヘルパーさんに来てもらったり、デイサービスやショートステイを利用したりしましたし、近所の方々もそれとなく気を配ってくれますが、 頑固者の義父には気に入らないことも多々あり、少しずつギクシャクしてきます。

痴呆症状の出始めた義母が、パーキンソン特有の震える手で台所仕事をし、義父が弱った足腰をひきずるようにして買い物に行っていました。お互いに相手の老いてゆく様子を気にしながら、自分はまだまだ大丈夫だと思っているようでした。

年寄りだけで暮らすのは、もう無理ではないかと私たちが思っても、自分ではしっかりしているつもりの義父は息子たちの話には耳を貸しません。私と夫は毎週のように長野へと車を走らせました。子供たちに留守番をさせることも多く、心配しましたが、4人で助け合って、なんとか過ごしていたようでした。

3、4年そんなふうにしているうちに、ますます二人は、ともに弱ってきました。そんなある時、義母がデイサービスの日に起き上がれなくなってしまいました。迎えの方が手配をして、近くの病院に入院させてくれました。血圧が低くなりすぎて、倒れたらしいのです。
程なく、起き上がれるようにはなりましたが、満足に身の回りの事ができない状態なので、そのまま入院させてもらいました。

一方、一人で家に残された義父は、それから半月ほど経ったある夜に、ストーブの上にあったヤカンのお湯をひっくりかえして、足にやけどをしてしまいました。近所の方が、義母の入院している病院まで連れていってくれて、そのまま、同じ部屋の隣のベッドに入院しました。
義父が突然入院した、と知らせを受け、びっくりした私たちでしたが、やけどの程度もそれほどひどくない事を知り、かえって病院に居られることで、安心したものでした。5年前の1994年11月末のことです。

一ヶ月以上過ぎ年が明ける頃には、義父のやけども良くなり、義母も治療の必要がないということで、退院することになりました。しかし、自宅に戻り二人だけで暮らすことは、もう無理なことです。隣の上田市にある老人保健施設に頼み込んで、退院した1月末から3月いっぱい、暖かくなる時期まで入所させてもらいました。

この三ヵ月の間に、二人、特に頑固一点張りの義父のほうを説得しなくてはなりません。「ヤケドで痛む足では、うちに帰っても、お母さんの面倒をみることは無理だから、坂戸に来て、一緒に暮らしましょう。」そう言いました。夫も兄も何度も繰り返し話しをして、なんとかわかってもらえるようにしました。

その間に受け入れ体制を整えました。家具を移し変えて、一部屋を義父母のために空けました。エアコンを取り付け、廊下には、できるだけ手摺をつけました。ホームセンターで材料をそろえた、手作りの物ですが、あとで大変役に立ちました。
サッシ窓の上に鍵を付けたり、家の中の押し入れや洋服ダンスの扉が開かないように工夫したりしました。
ベッドを二つ用意し、ベッドとベッドの間にポータブルトイレを置きました。その部屋はすっかり年寄りの住まいへと変わってしまいました。

私も覚悟を決め、これから始まる介護の日々を考えて、身の回りを整理しました。専業主婦でしたので、仕事をしていたわけではありませんが、いろいろな役回りもかかえていましたから、それらをすべて断り、いくつかの趣味のグループもお休みすることにしました。

こうして二人の介護に明け暮れる毎日が始まりました。義母81歳、義父83歳、ちょうど4年前の1995年4月のことでした。

この頃、義母は中程度の痴呆で、パーキンソン病による歩行困難がありました。しかし、まったく歩けないというわけではなく、手を引いてやれば歩けましたし、自分で行きたいと思うところへは歩いて行きました。トイレの方はうまく出来ないので徐々にオムツをし始めたところでした。

義父はこれといった病気は無かったのですが、足腰がすっかり弱っていて、つかまり歩きでやっと歩いていました。トイレはやっと間に合うといった程度でした。

二人とも寝たり起きたりの生活をしていましたが、食事の時は部屋から出てきます。椅子に座らせてテーブルにつけてあげると自分で食べ始めます。 毎日三回、食事の支度をして、二人を座らせてテーブルにつかせる。それだけの事がなんと大変な事だったか、たちまち私は筋肉痛になりました。

十分に覚悟をしていたはずでしたが、やっぱり現実は大変なものでした。
夜、義母が「火事だ。」と起き出して、ドアをドンドンたたく。こんな時は力も強く、声も大きいのです。お客さんが来るから、布団を用意しなさい、とか,駅で赤飯を配っているから早く取りに行け、兵隊がやって来るから逃げろ、などと出来そうも無い事を、次から次に言います。

慣れてない私はその度になだめたりすかしたりして、言う事を聞いてくれない義母にイライラ、カッカとしていました。今なら適当にやり過ごす事もできますが、その頃は、なんとかわからせようと、一生懸命だったように思います。

義父は、よく長野へ帰りたがりました。向こうへ帰れば知り合いが大勢居るから、とか、大事な話し合いがあるから、とか、母さんは無理だろうが自分ひとりなら暮らしていける、などと言って、「明日の朝、一番の電車に乗る」「タクシーを呼んでくれ」と、私や夫を困らせました。

義父は体力がないので、夜は比較的よく眠っていましたが、昼間は散歩に出て行きました。玄関に座り込んで靴を履き、ヨタヨタと道路へ出て行きます。横に付き添うとおこります。転びそうになった時、支えようとすると手を振り払います。後ろからそうっとついて行ったり、二階から見張ったりしました。
でも、家の中にも何をするかわからない義母が居ますし、あっちもこっちも大変な毎日でした。
気が付かないうちに出て行った義父が道路の真中で立ち往生して、車を止まらせていたり、道路で転び起き上がれなくなっているのを近所の人に助けてもらったりもしました。

また、義父は感情の起伏が激しく、大きな声で怒ったり、そうかと思うと泣きわめいたりしました。若い頃は学校の先生だったので、長野に居た頃、周りの人から、「先生、先生、」と頼りにされていました。地元のご意見番として活躍していたので、プライドも高かったのです。それが、歳をとり思うようにならないことが多くなって怒りっぽくなってきたのでしょう。

そのうえ、病気の妻の面倒を看ながら、一家の主人として取り仕切っているつもりでしたから大変です。リハビリには台所仕事が一番良いと信じて、義母に食事の支度をさせていたのですが、やり方を忘れている義母は上手くできません。義父はそんな義母に苛立ち、当り散らしていたようで、長野ではしょっちゅう夫婦喧嘩をしていたそうです。

こんな事もありました。義母が「助けて。」と部屋から出てきます。「どうしたのですか。」と行ってみると、「棒でぶたれた、助けて。」と言います。どうやら急いで逃げて来たつもりのようです。その後ろで義父が手を振り上げて怒っています。二人ともゆっくりしか動けませんので、ぶってもぶたれても、怪我をしたりあざが出来たりすることはないのですが、義父は満身の力をこめて殴っているつもりですし、義母は棒で殴られたように感じているのです。

義父の手を止めて、義母をテーブルに連れてきてお茶とお菓子を並べて落ち着かせます。義父は怒りがおさまりません。私が「そんなに怒ってばかりいると、おばあちゃんがますますボケちゃうよ。叱るのが一番良くないんだから。」と何気なく言うと、今度は私に向かって烈火のごとく怒り出します。「おまえに何がわかるか。俺に説教する気か。俺はおまえの何倍も長生きをして、何でも知っているんだ。ボケのことだろうが、病気のことだろうがすべてわかっているんだ。」……と。

そんな風に怒ってばかりいるかと思うと、次には「もう、おしまいだ。こんなになって生きてられない、殺してくれ。」とか、「ナイフを持って来い、包丁を持って来い。」「電車に飛び込むんだ。」などと言って泣き出します。
義母の介護のはずが、かえって義父のほうが扱いにくい毎日でした。

そんな中で、特に大変だったのが、お風呂でした。週に何回か、暖かい日の午後にお風呂に入れるのですが、準備をした後で、「今日は入りたくないよ。」とすっぽかされることもよくありました。入る時には二人を順番に入れるので、時間も手間もかかり、くたくたになりました。この大変さは、皆さんよくわかっていただけると思います。

こんな具合に二人に振り回される毎日の中で、家族のありがたさが身にしみました。昼間、二対一で老人ワールドに引きずり込まれおかしくなりそうでも、夕方になり、子供たちが学校から帰ってきたり、夫が仕事から帰ってくるとほっとしました。私にも普通の世界が戻って来たように思えるのです。

自分の家なのに落ち着く場所がないのは辛いことです。
なんとかしたい、こちらが参ってしまいそう。夫と相談をして、義母のデイサービスを探す事にしました。
初めてのことでしたが、思い切ってケアホームへ申し込みの電話をしてみました。すぐに訪問に来てくださり、6月中旬から、義母だけでしたが、週一回のデイケアが始まりました。ちょうど入浴日に当たる日だったので、お風呂にも入れてもらえました。これで、ずいぶん楽になりました。

送迎の方が毎週、玄関口まで来てくださるというのも、介護にあたる者にとっては良い気晴らしになりました。
開放感というのでしょうか。義父も気になる義母が目の前にいないので、落ち着いたようになりました。

しかし、夏を過ぎる頃から、義父のトイレが間に合わなくなり始めました。
こうなると二人分の世話に追われるようになります。ズボンを下ろす途中で出てしまったり、歩いている途中だったり。あるいはトイレの床だったり、部屋のドアを開けようと立ち止まった所で、という具合です。リハビリパンツやパットをあてていましたが、動いたりいじったりするので、ずれてしまうのです。

ポータブルトイレやベッドの周り、部屋の畳、ドアの前後や廊下からトイレにかけて、と二人の歩き回る所は、いつもジメジメしていました。いくらふき取ってもきりがありません。雨の日はドライヤーで乾かすのですが、乾き終わったと思うと、もう次の水たまりができていたり…。

それぞれに自分のせいだとは思わずに、それでいて相手の失敗は分かっているようでした。
「まったく迷惑ばかりかけるんだから。」などと互いに責め合っていました。今では笑い話にもできますが、その頃は心中おだやかでは居られませんでした。そのうえに大便の後始末が重なる時もあり、ノイローゼになりそうでした。きっと、どこのお宅でも同じ経験をしている事と思います。

そんな時、一人で耐えられるものではありません。夫が替わってくれたり、子供たちが支えになってくれたりしました。
私がイライラしていると、娘が「気晴らしに買い物にいってきたら。」「疲れてるようだから、二階で一休みしておいでよ。」などと声をかけてくれました。息子たちも「おじいちゃん、おばあちゃん、部屋で寝ていていいよ。」とやさしく連れ戻してくれます。

家中が臭うようになったり騒々しくなったりしても、子供たちは「仕方ないね、お母さんはえらいネ。」と言うだけで、文句を言ったりしませんでした。
介護をしたおかげで、夫の思いやりや、やさしさをずいぶん感じましたし、それまで気がつかないでいた子供たちの成長ぶりにも気づかされました。

冬になる頃には、義父も義母と同じくらいの呆け具合になりました。

義母だけだったデイケアに義父も通うようになりました。それまでは「なんで俺がそんな所へ行かなければならないんだ。」と乗り気ではなかったのですが、お迎えの方が上手に連れ出してくれました。特に男性の方が迎えに来てくださると、機嫌がよくニコニコして、出掛けていきます。

二人がいない時間、私は心の底からのんびりして、開放感を味わいました。これに味をしめて、デイケアを週二回、週三回と増やしていただきました。
二人をお風呂に入れるという重労働から開放されました。自由な時間が増えて、私も好きなことができます。趣味のグループにも再び通いだし、お友達とも、ゆっくりおしゃべり出来るようになりました。

両親が坂戸へ来て一年が過ぎた4月、初めてショートステイを利用しました。デイケアには慣れていたものの、どうなることかと心配でした。しかし、やってみると二人ともプロの皆さんにお世話していただいて、何も言う事なくすっかり安心しました。

夜に両親がいないと、なんて楽なことでしょう。朝のオムツ替えから始まるあわただしさもありませんし、1日がゆったり過ぎていくようです。この安心感に味を占め、その後は度々ショートステイを利用しました。
週三回のデイケアとショートステイ、それに一ヶ月あるいは二ヶ月に渡ってのロングステイを利用するようになって、介護の様子はぐんと楽になりました。毎日の大変さは、相変わらずでしたが、「あすはデイサービスに行ってくれるから」とか「あと何日でショートステイだわ」と思っていると、たいていの事はやり過ごすことができました。

ケアホームの皆さんにも、とても助けていただきました。
いつも面倒をかけて申し訳なく思っていると、「仕事だから大丈夫ですよ。」と笑顔でこたえてくれます。プロの皆さんの頼もしさをありがたく感じました。

二人を介護するということは、手間も時間も二倍かかるし、夫婦喧嘩はするし、大変ではありましたが、良い面もありました。それは、話し相手がいつもそばに居るという事です。お互いにトンチンカンなやりとりで、会話として成り立っていないのですが、それぞれが、言いたいことを言っているうちになごやかに時間が過ぎていくという時もありました。

それに、周囲のめぐり合わせも良かったのです。
親族には介護を代わってくれる人がいませんでしたが、そのかわり口出しされたり批判されたりする事もありませんでした。夫と相談するだけで、私のやり方で介護することができました。 友達や隣近所も好意的に受け入れてくれましたし、子供たちにもずいぶん助けられました。私が思っていたより、はるかに頼りになる存在になっていた子供たちに気づくこともできました。

夫にも感謝しています。介護にかかわることはすべて、妻である私中心に考えてくれました。「介護する人が倒れちゃったら大変なんだから、適当にやっておいていいんだよ。」と言って、私を気楽にさせてくれました。ですから、ケアホームに預けるスケジュールにしても、その他のことでも、相談すれば私が楽になるように考えてそして決めてくれました。
もしかすると、妻に親の面倒を看させていることで、夫のほうが精神的に辛かったかもしれません。

二年目になると、ある程度ペースもできあがりましたし、手抜きをするコツも覚え、適当にやれるようになりました。それに、二人とも少しずつ体力がなくなって行き、動き回る範囲が減ってきて、ベッドで休んでいる事が多くなってきました。
ケアホームで預かってもらっている間に、旅行に出掛けたり、コンサートに行ったり、ボランティア活動をはじめたり、かなり充実した日々が送れるようになりました。

この調子で何年かやっていって、特養の空くのを待とうかと思っていたところ、坂戸へ来て三年目の12月、義父が急性肺炎で、あっけなく亡くなってしまいました。
その前の日にはデイケアに行きいつものように過ごして、夜もいつものように寝かせたのですが、翌朝、起こしに行くと、すでに意識不明になっていました。救急車を呼び病院に運びましたが、その日のうちに亡くなったのです。

突然のことであたふたしましたが、ケアホームに相談したところ、すぐに対応してくださり、義母を毎日デイケアで預かってくれました。そのおかげで義父の葬儀を無事にとり行うことができました。臨機応変に対応してもらえたのは、本当にありがたく助かりました。

二人の介護をしている最中は、一体いつまで続くのだろうと不安になったものでしたが、義父の介護は2年8ヶ月で、あっけなく終わってしまいました。 その後は義母ひとりになったので、ぐんと楽になりました。

義母は義父の亡くなったあとも、あまり変わりなく過ごしていましたが、昨年9月、今年1月と続けて肺炎を起こし入院してからは、すっかり寝たきりになってしまいました。寝たきりになってからの介護はいままでと勝手が違い、最初は戸惑いましたが、だんだんに慣れてきました。

これからも、ケアホームの皆さんをはじめ、まわりの人に助けていただきながら、適当に手抜きをしつつ、頑張っていこうと思っています。
いつか介護が終わる時がきたら……それが何年先のことかわかりませんけれど、その時に「両親のせいで何年も損しちゃったわ」と思わないで済むように、自分自身の今の生き方を楽しみながら、介護を続けて行きたいと思っています。(1999.5.29)

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